大人になれば、好きなものを好きなだけ買うことが出来るのだ、と思っていた。
それは僕がまだ、親に頼むことでしか欲しいものを手に入れる手段がなかった頃のハナシ。
そういえば、外に出かけノドが渇いたとき、ジュースは買ってもらえなかった。
水やお茶は家にあるから、ともちろん NO。
どうしてもノドが渇いた僕はおもむろに、車内にあったガムを口の中に2、3個放り込んだ。
この時の僕はまだ知らなかった。
少しでも気を紛らわそうと思って口に放り込んだソイツは、唾液の分泌を促進し僕を更なるノド渇いた地獄にいざなう時限爆弾だったことに。
それ以来、ノドが渇いた時でもガムだけは口にすまい、と決めている。
大きめなショッピングセンターへ行くと、必ず立ち止まって眺めてしまうものがある。
数百円かを使って、自分の欲しいもの、気になるものが手に入るかどうかのスリルを楽しむ。
多くの場合、一発で欲しいものは出てこない。
今となってはそういうものだ、と頭の中で整理できるけれど、思っていたのとは違うものが出てくると、どうもなにかにこの怒りをぶつけられないだろうか、と思っていた。子供ながらに。
家の近くに、ガチャガチャ専門店があった。
自分の背丈よりも遥か高い場所にまでガチャガチャが組み立てられていて、幼いながらに「今地震起きたら俺つぶれちゃうな」なんて考えていたこともあった。
保育所は土曜日の午前中まであった。
平日の送り迎えは母さんだったが、土曜の迎えだけは親父だった。
車が好きな親父は、日産のスカイラインで迎えにきていたのを覚えている。
保育所のあとに、ガチャガチャ専門店に寄ってから、家に帰って袋のカップラーメンを食べるというのが土曜日の流れ。
今では気の済むまでガチャガチャ出来るが、その時は1、2回しか出来なかったように思う。
左手に握りしめた数百円をどのガチャガチャに使うのか、当時から優柔不断だったのを覚えている。
子供の頃欲しかったがお金がなくて買えなかったモノが、今となっては大体買える。
妹にはリップやポーチを、弟にはマンガを。
自分がこれが欲しいと親に言い出せなかった分、弟たちにはこれが欲しいのか?とよく聞いてると自分でも思う。親代わりではないが、そんな兄貴が欲しいと長男ながらに思っていたのを思い出すからだろう。
それにしても、どうしてあんなに惹きつけられるんだろうか。
よくわからない感じのシュールなやつが好きなんだけど、正面の紹介のところを見ているだけで時間が溶けていく。
引き金を一回転させると、中が見えないカプセルが出てきて、毎回毎回ドキドキしながらカプセルを開けるあの瞬間。
他の何者にも形容し難く、あの頃のドキドキは今、この年齢になっても変わらない。
「貧乏性」という言葉の中に、いつもけちけちして余裕のない様子、という意味があるらしい。
そして、貧乏性の特徴として、モノが捨てられない、という特徴があるという。
だとすれば、僕は貧乏性でない可能性が出てきたぞ。モノはキッパリと捨てられるタチだ。(けちけちで余裕がないことは置いといて)
そんな貧乏性。慎重派という言葉に置き換えられると聞いた。
なるほど。そっちの方がなんだかポジティブな感じがする。
あの頃の自分から今の自分へ、ガチャガチャは自由にできていますか、と手紙が来たとして、僕はなんと答えられるだろうか。
あの頃の自分へ。それなりにお金はありますが、自由には出来ていません。
色々と迷って一回だけ回す時もあれば、そのまままた今度、となるときもあります。
まだ貧乏なのか、と落ち込む必要はありません。
慎重派なだけなのです。
kentaro