こないだちょうど三連休が取れたので久しぶりに実家に帰った。
とはいっても、ゴールデンウィークに帰ったので半年も経っていないが、まぁそこはいいとしようじゃないか。
いつもは大体決まったメンバーを誘って飲みにいくことが多いのだが、今回ばかりは都合が悪くそのメンバーとは飲みにいけず実家でゆっくりする時間が多かった。
今住んでいる家には存在しないテレビで録画してもらっていた「おげんさんといっしょ」を見て、紹介されていた曲をApple Musicに追加したり、スマブラを手がびちょびちょになるくらいやったり、アイスを怒られるくらい食べたりもした。
じいちゃんとばあちゃんに会いに行ったりした。幸いうちの老人たちはみんな元気に生きている。
母方のじいちゃんは畑仕事で年中真っ黒なのだが、力持ちで太かった腕は思ったより細くなっていた。
悲しい、さみしい、とは不思議と思わなかった。
これが「老いる」か、なんて思って妙に納得した。
ばあちゃんはいつもお土産以上のものを持たせてくる。これではどっちがお土産を用意したのか分からないじゃないか、ばあちゃん!ありがとう!
帰ったらよく海に行く。
小さい頃から、住んでいた所の徒歩10分圏内には海があった。入江で近くに工場もあってキレイではないが、それでも海沿いをランニングしたり海沿いの公園でキャッチボールをした思い出もある。
そんなこんなで、海に行くとものすごく落ち着くので、毎日でも海に行きたいのだが、あいにく住んでいる奈良県は見渡しても見えるのは山と川だけなので、休みの日は遠出したくなってしまう。
帰ったらよく墓参りにも行く。
前まではどうしてもめんどくさく思っていたのだが、実家を離れると不思議とそう思わなくなっていった。
ご先祖様がこんな石の中に眠っているとは思わないが、骨が埋まっていると考えると手を合わせて拝まずにはおられない。
人は死んだらどうなるのだろう、とふとした時に頭の中でディスカッションする。
僕は死んだら、何もなくなると思う。何かあると思うのは、人間の考え過ぎだ。虫や犬はそんなこと考えながら生きていない、と思う。
ただ、何もなくなるとは言っても、それは死んだ人のことであって、その人のことを考える人がいる限り、その人は考える人の中には生きている、と思う。
つまり誰にも思い出してもらえなくなったら、それが人としての死だろうな。と最後にはここに帰着する。
出来るだけ多くの人の、思い出に残るよう生きるにはどうしたらいいだろう、と考えながら台風で満席となり、ずっと立ちっぱなしの新大阪行きの新幹線の中で考えている足取りは、重かった。